文章を書く。──私はその行為が途轍もなく苦手だ。使い古されて、もうボロボロになってしまった言葉だが、それこそ身を切る思いで書いている。そして、私はいつも後悔する。身を切る思いで書いた文章が、この程度か、と。
そしていつも思う。
もう文章は書かない。
だが、今私はこうして文章を書いている。きっと数時間後に後悔するだろうという事が判っていながら。結局、堂々巡りだ。
書かれた文章。
当り前だが、文章は誰かが書くものであって、文章自身が書くものではない。もし文章に気持というものがあるなら、彼もしくは彼女はどう思うのだろう? ウィリアム・シェイクスピアに書かれた文章は自分を誇るだろう。フリードリッヒ・ニーチェに書かれた文章なら、「それが何だというのだ!」と云うだろう。──私に書かれた文章は、自分が生まれた事を呪っているだろう。
だが、彼もしくは彼女には言葉が無い。彼ら自身が言葉なのにも拘らず、彼らは自分の意思を表明出来ない。何という皮肉だ! 彼もしくは彼女自身はこれっぽちも思っていない事が、それが彼もしくは彼女の全てとなってしまう。これほど酷い事がこの世にあろうか。
それでも私は彼もしくは彼女の気持を無視して文章を書いている。何処にも辿り着かない事を知りつつも、後悔する事を承知で。
しかしこんな事を書いて一体何になるのだろうか。きっと何にもならない。どこにも届かない。誰かがこれを読んでも啓発されることは無いだろう。誰の心にも残らないだろう。君の心にも。
つまりは意味がないという事だ。きっとこの文章は誰にも判らない。勿論、私自身にも。
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